がらにもなく今年も初詣へ行ってきた。
昨年は日光東照宮まで足を延ばしてきたのだけど、今年は神社とお寺をはしごしようということになり、まずは自宅から約25kmのところにあるこちらの神社へ
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茨城県常総市にある三竹山一言主神社であります。
三が日は周辺道路が大渋滞するほど人気の初詣スポット(以前三が日にこの近くを通ろうとして大渋滞に巻き込まれた苦い思い出がある)なのだが、この日(1月5日)は渋滞もなくすんなりとヴェル様を駐車場に停められた。
境内には出店も並んでいて、なんとなく庶民的で懐かしい雰囲気。
▲本堂の彫り物もなかなか見応えがある。
▲本堂裏手には立派なご神木がそびえたつ。
ここには35分ほど滞在し、次の目的地(その場所こそが本日の主役)へとヴェル様を走らせる。
そして約一時間で山の中腹にあるその古刹へ到着。
ここへは何度も訪れているが、いつ来ても人の姿は疎ら。
本当はものすごく価値のある文化財がたくさん眠っている関東有数のパワースポットであると私は思っているのだが‥‥‥。
そう、
あちらのブログでも何度も取り上げている椎尾山薬王院である。
2010年にここを訪れた時、仁王門の両脇に納められた阿形・吽形二体の仁王像の迫力に圧倒され、これを造った人は相当な腕を持つ一流の仏師に違いないと確信させられたものだった。
その後、傷みが激しいこの仁王像たちは大正大学に於いて修復が行なわれているという話だったが、昨年の8月に修復が完了し再びこの場所に戻ってきているというので、ぜひその姿を再び拝ませていただきたく、初詣を兼ねてこの場所を訪れたという次第。
だが、かつてその仁王像が置かれていた場所はもぬけの殻。仁王門も以前よりさらに傷みが激しくなっているように見える。
実は、傷みの激しい仁王門の修復代に充てるべく、拝観料500円を払って別棟(阿弥陀堂)の中に置いてある仁王像(金剛力士像とも言う)を拝ませて戴くという話になっているのでした。
その阿弥陀堂へと向かう前にまずは本堂を参拝。仁王門をくぐりその先の急峻な石段を登ると、穏やかな表情の石仏が迎えてくれる。
一通り参拝を済ませ、いよいよあの仁王像と10年ぶりに再会だ。
案内に従って境内の南西端にある阿弥陀堂の前に到着するが―――
そこには人の姿はなく、こんな貼り紙が
▼ 「案内不在の場合は拝観できませんので、あらかじめお問い合わせいただけますと幸いです」とのこと。
周囲を見渡しても人の姿は見当たらないので「すみませーん!」と大きな声で言ってみるが、何の反応もない。
私の連れは「もういいよ、帰ろう」と早くも諦めモード。だが、私としてはせっかく10年ぶりにあの仁王像を観ることができるこの機会を、そう簡単に諦める訳にはいかない。阿弥陀堂の横の建物(住居?)に向かって再度「すみませーん!!」と言ってみるがやはり反応は無し。
誰も居ないのか!?‥‥‥やはり今日は諦めるしかないのか―――と思い始めたその時、玄関横に「ピンポーン♪」の押し釦を発見!!すぐにそれを押すと、建物の中から「は~い」という返事が聞こえ、数秒後に女性の方が玄関から出てきてくれた。
「仁王像をぜひ拝観させていただきたいのですが‥‥‥」私がそう言うと「わかりました。係の者を呼びますので少々お待ちください」という返事。「よかった、これであの仁王像と再会できる」と喜んでいると、すぐに現われてくれたのはこのお寺の住職さんだった。
その後、阿弥陀堂の中へ入らせていただき、まずは拝観料(二人で千円のところ、ささやかな気持ちをプラスして二千円)を納めさせていただき、住職の説明を聞きながらまずは右の部屋に安置されている阿形の仁王像といよいよ再会することになった。
(ここから先は「写真はご遠慮ください」とのことでしたので残念ながら画像はありません。その時にいただいたパンフレットの画像でご勘弁を)
10年ぶりに対面した阿形像は、もげてしまっていた左腕も元の位置に取り付けられていて、何度も塗り重ねられていたと思われるぶ厚い塗料も剥がされ、肩や腰に巻かれていた布地も取り払われていたため制作当時の木彫りの表情が剥き出しになっていて、仁王門に納まっていた時にはわからなかったリアリティ溢れる姿でそこに佇んでいた。
実は今回この仁王像をどうしても観たかった理由は、その修復の過程において、これが今から約八百年前にあの有名な運慶を頭とする「慶派」の仏師によって造られたものに違いない、という事実が明らかになった―――そんなビッグニュースを目にしたからだった。
運慶と言えば、2年ほど前に上野の国立博物館で開催された「運慶展」を観に行き、その超写実的な仏像等の数々をこの目で観て、深く心を動かされたものであった。
その運慶一派がこの薬王院の仁王像を造ったらしい、という情報に触れた時「ああ、なるほどなぁ‥‥‥」と私は納得した。
この薬王院の仁王像を初めて観た時、その写実的な迫力に満ちた姿に圧倒され「これを造った人はただ者ではないな」と直感したのだが、そうか、運慶一派の作品だったのか‥‥‥。
私が運慶展で観たたくさんの像の中で一番心を動かされたのが「重源上人坐像」。座っている老人の木彫りの像なのだが、とにかくそのリアリティたるやハンパなかった。
特にその頭部を横から見ると、中に頭蓋骨があってその周りを薄い皮膚が覆っている質感がものの見事に表現されていて、まるでそこに「魂」が宿っているかのようで、深く感動させられたものだった。
この薬王院の仁王像にもそれに相通じる作風が感じられ、これが運慶一派による作品だという説には大いに納得させられた。
「どうです、この手の甲の血管までまるで本物のようなこの造り。どうぞ触ってみてください」
住職の言葉にハッと我に返り「触ってもいいんですか?」と尋ねると「ええ、ぜひ触れていただいて八百年前の仏師のパワーを感じ取ってください」と住職。八百年前に運慶一派が魂を込めて彫り上げた仁王像にじかに触れることができるなんて‥‥‥これ以上にご利益があることなんて他にはあるまい。私は住職の言う通り、そこから強いパワーを吸い取るようにたっぷりと触らせていただいた。
さらに住職は「奥さん、この腰の張り具合、どうですか!?ぜひ触ってみてください」と言い、言われたとおりにその仁王像の横に張り出した腰に手を当てた連れは「あぁ~(;´Д`)」と、何とも言えない声を出して恍惚の表情を浮かべるのであった(←オイ(笑))。
冗談はともかくとして、この阿形像を改めてよく見てみると、仁王門に置かれていた時には布で覆われていて見ることができなかった左肩から腕にかけての、盛り上がった上腕二頭筋とそれに覆い被さる三角筋の造形は、まさに鍛え上げた人間の筋肉美を忠実に表現していて、超写実的な運慶一派の作風と合致すると思えた。
「10年前に初めてこの仁王像を観た時、これを造った人はただ者じゃないと思いました」と私が言うと住職は「見る目がおありですね」と褒めてくださり、ちょっといい気分になる私。そう、今までいろいろな所の仁王像を見てきているが、「赤鬼」のようなちょっとコミカルな感じの物が多い中で、ここの仁王像の迫力は他にはないものがあると感じられたのだ。
住職は「私は仏像にはあまり詳しくないので、副住職(住職の息子さんらしい)が居れば彼は修復にも係わっているし、もっと詳しく説明できるのですが‥‥‥」と言いながら、十分すぎるほど詳しい説明をとても丁寧にしてくれた。
その中には「ここだけの話ですけど―――」という口外できない話もあったりしたのだけど、ここ薬王院から北に10kmほど離れた所にある「雨引観音」の仁王像も、その修復の過程で運慶一派の作品であるという結論が出された、という話は初耳であった。
だが、今から八百年ほど前に運慶一派の仏師たちが、奈良から遠く離れたこの真壁の地を訪れ、薬王院と雨引観音の2ヵ所で仁王像を造って行ったという可能性は大いにあるのではないだろうか。
そして、現在も多くの参拝客で賑わう雨引観音が二千万円の修復代を払って東京芸術大学に仁王像の修復を依頼したのに対し、薬王院の仁王像の修復は仏教系の大正大学(住職・副住職も同大学卒とのこと)において授業の一環として行なわれ、要した費用は像を運ぶ際に住職が借りたレンタカー代のみ、とのことだった。
そんな経緯もあってか、雨引観音の仁王像が運慶一派の作品であるということは茨城県でも大々的にアピールしているようだが、その後になってこれも運慶一派の作品であるという話が出てきた薬王院の仁王像の方は、なんだかひっそりとその事実が発表されているように感じられる。
私としては、仁王門も含め県の―――いや、国の重要文化財に指定されるべき貴重な作品だと思うのだが‥‥‥。
薬王院の住職の話では、仁王門の修復には何千万という費用が掛かるとのことで、五百円の参拝料だけではいつになっても修復は実現しないのではないかと思えてしまう。
だが、桜井瀬左衛門安信という腕のある大工棟梁が手掛けたという薬王院の仁王門。ぜひ綺麗に修復して、運慶一派の作品に違いないこの仁王像を、再びその中に納めてもらいたいと切に願うこの私であります。
‥‥‥誰か大金持ちがポーンと仁王門を直すお金を払ってくれないかなぁ!?!?
でも、八百年前の運慶一派の作品にじかに触れられるチャンスは今だけかも。興味のある方はぜひ拝観料をお支払いの上、たっぷり触らせてもらってください!!