前回書いたとおり私が中学生だった1969年頃、自宅周辺にハコスカGT-Rやロータスヨーロッパなどが路駐されていて、珍しいクルマを生で見るチャンスにはけっこう恵まれていた。
そこで、もっといろんな珍しいクルマを生で見たいと思った私は、自宅周辺で一番交通量が多いと思われた環七(環状7号線)までチャリで出かけて行って、通行するクルマをただただじっと眺め続けるという行動に出る。
だが、珍しいクルマはほとんど通らなかったので、チャリでの移動距離を延ばし、足立区内では一番交通量が多そうな北千住あたりの日光街道(国道4号線)まで行って、行き交うクルマを眺めていた。
ここではコスモスポーツやセンチュリーなどを見ることができて少しは満足できたのだが、私の気持ちはおさまらず、行動はさらにエスカレート。当時、日本で一番交通量が多い場所と報道されていた「祝田橋交差点」へ、チャリでクルマ見物に行くという奇行(?)に打って出たのである。
祝田橋交差点とは皇居の南端で内堀通りと晴海通りが交差し、周囲には日比谷公園やKC庁のある桜田門があるという東京のど真ん中。その場所へ東京のはずれ・足立区から自転車に乗ってクルマ見物に行くというのだから、呆れた中学生である。
だが、この行動はいきなり大成果を上げる。
なんと!こんな希少なクルマを見ることができたのだった↓
そう、ランボルギーニ・ミウラだ。
この時はまだ「スーパーカー・ブーム」に火がつく前で、ランボルギーニなんて知っている人はほとんどいなかった。
そんなメーカーが最初に作ったスポーツカー「ミウラ」。その実物を、それも走っているところをこの目で見ることができた中学生の私はもう大興奮。もう無我夢中でその真紅のミウラのあとをチャリで追いかけたのだが、幸いにも晴海通りが渋滞気味でノロノロ運転状態だったお陰で、このミウラの後ろを銀座あたりまでついて行くことができたのだった。
その間ずっと聴こえていたV型12気筒エンジンの咆哮や、特徴的なルーバー式リアウィンドウを持った後ろ姿などは今でもはっきりと覚えているが、残念なことに翌日中学校へ行ってクラスのカーキチ仲間に「きのうランボルギーニ・ミウラ見たんだぜ!!」と自慢しても、「本当かよ!?」って感じであまり信じてもらえなかったのだ‥‥‥。
「よ~し、今度はカメラ持って行って証拠写真撮ってやる!!」
こうして、次の日曜日から私の「祝田橋詣で」が始まるのであった―――。
(つづく)