この「カーキチな中学生だったあの頃」シリーズも、前回で私が中学を卒業してしまったため終了となりますが、中学生じゃなくなっても相変わらずカーキチであることに変わりはなかったので、番外編としてその続きを書くことにします。
前回書いたように東京レーシングカーショーで風戸裕と出逢い、そこでLPレコード「RACER 風戸裕」を買ってそれにサインしてもらった私は、ますますカーレースの世界に引き込まれて行き、中学を卒業して高専生となった1971年4月、日本のカーレースの聖地ともいえる「富士スピードウェイ」へ一人でレース観戦に行くことになる。
15歳になったばかりの私は当然クルマやバイクなどの移動手段は使えないので、自転車で北千住駅まで行って電車を乗り継いで御殿場駅まで行き、そこからタクシーに乗って富士スピードウェイへと行くことに決め、時刻表などで電車の時間を調べたりしながら綿密に計画を練った。
そう、今だったらネットで簡単に情報収集が可能だが、当時はインターネットなんて便利なものは影も形も無く、雑誌などの紙媒体でコツコツと情報を入手するしかなかったという時代。「毎日グラフ」で「ちびっ子」呼ばわりされた(笑)この私も、自分一人で計画を立てて行動できる立派な「大人」に成長していたというワケだ。
結局私はこの年に同じ行き方で2度、富士スピードウェイのレース観戦に行っている。
最初のFISCO行きは‥‥‥なんせ半世紀近く前のことなので記憶があやふやになってしまっているのだが、たしか1971年4月25日の「富士300kmスピードレース」かなんかだったと思う。
実物を一目見てファンになってしまった風戸裕もポルシェ908Mark2で出場していたはずなのだが、そのレース内容や結果はほとんど覚えていない。
とにかく印象に残っているのは、初めて訪れた富士スピードウェイのスケールの大きさ。
以前行った筑波サーキットとは比較にならない広さで、自分がいる場所がコースのどの辺りなのかさえよく分からないような状態で、レース観戦どころではなかったような気もする。
よく覚えているのは、あの有名な「魔の30度バンク」は遠くからも見え、そこを走るレースカーが「ウワンウワン」という感じで上下に揺れているのが遠目にも分かり、「RACER 風戸裕」の中で「バンクは路面が荒れていてラインが1本しかない」と風戸が言っていた事をこの目で確認することができた、という事実。
それ以外の事は、初めて見る富士スピードウェイの広さ、スケールの大きさ、そして集団でそこを走り抜けるレーシングカーたちの轟音・迫力に圧倒されてしまい、ほとんど何も覚えていないという有り様だった。
↑その30度バンクは一部が今も残っているようで、Googleのストリートビューで確認できる(奥の斜面の下方に見える舗装路)。
そして、2度目の富士スピードウェイ行きはその3か月後の7月25日に開催された「富士1000kmレース」だった。
1度目のFISCO行きでカメラを持ってこなかった事を禿しく後悔した私は、父親からPENTAXの一眼レフと望遠レンズ、そして三脚を借り、写真を撮る気満々で2度目の富士スピードウェイに乗り込んだ。
このレースは耐久レースなので様々なカテゴリーのレースカーが混走することもあって(?)、例の30度バンクは使用しない「左回りショートコース」で行なわれたのだが、当日は朝から雲が低く垂れ込み、小雨が降り続き時おり霧で視界が悪くなるという生憎の天候。
まぁFISCOではよくある事だが、写真を撮る気満々だった私にとっては、とても残念な状況となってしまったわけだ。
そんなわけで、ヘアピン付近に三脚を据えて頑張って撮影を試みたものの、帰ってからフィルムを現像に出した結果はほとんどがどーしょーもないボツ写真ばかり(>_<)。
そんな中で、1枚だけちょっといい瞬間が撮れていたモノがあったので、当時愛読していた(←立ち読みじゃないよ)「オートスポーツ」誌(いや、もしかしたらそのライバル誌だった「オートテクニック」の方だったかもしれない)の「読者のフォトコンテストコーナー」に送ってみたところ、見事「佳作」として同誌に掲載されたのでありました(^^)v。
↑これがその写真。昔の写真とかは引っ越しの際にほとんど捨ててしまったのだけど、この1枚は記念すべき「初入賞作品」ということで捨てていなかったんですねぇ。
おカネが無くて白黒写真だったのがちと残念だが、状況を説明させていただくと59番のロータリークーペがヘアピン手前のブレーキング時にアフターファイアで漏れていたガソリンに引火、コースど真ん中で炎に包まれてストップ。
そこへゼッケン1番のマークⅡターボが突っ込みそうになっている―――という瞬間を切り取った写真だ。
まぁ望遠の圧縮効果で、実際には両車の距離はけっこうあって余裕だったと思うのだけど、緊迫感のある写真ということで佳作に選んでいただけたのだろう。
この出来事にも後日談があって、それは2005年か2006年頃のツインリンクもてぎでのMotoGPにオフィシャルとして参加した時、宿泊先でご一緒させていただいたレースオフィシャルの大先輩の方と昔話に花を咲かせていたら、なんとこの時にオフィシャルを務めていた方がいらっしゃって、この炎上するロータリークーペのドライバーを運転席から救出した、というのだ。
いや~、世の中って狭いもんですねぇ~~~、というお話しでした。
このレースで印象に残っているのは、出場していたカペラロータリークーペの排気音が「ペペペペペペ―――ッ」て感じで超うるさかった事と、それとは対照的にマークⅡターボが「ボォ―――」っていう感じの低音で超静かだったという事。なるほど、ターボチャージャーは排気から無駄に放出されてしまっているエネルギーを回収する効率的なシステムなんだなぁ、と自分の耳で実感できた瞬間だった。
というわけで、一人で富士スピードウェイまでレースを観に行くほどの「カーキチ」だった私ですが、高専に行っていると周りの学友が16歳になってどんどん免許を取り、バイクで通学するようになってきて(当時はバイク通学OKの良き時代だった)、誕生日が3月24日の私はなかなか16歳にならず、それを指を咥えて見ているしかなかった。
で、最初のうちは「2輪より4輪命」って感じで、あまり2輪に乗りたいとは思っていなかったのだけど、そのうち「高橋国光も北野元も、トップレーサーはみんな最初は2輪からレースの世界に入っているんだよなぁ‥‥‥」と思い始め、結局16歳になるとすぐに自動二輪の免許を取ってハスラー250を買ってもらい、その後は
こちらのページのとおりバイク一筋の人生を歩むことになるのでありました。
というわけで「カーキチな中学生だったあの頃」シリーズは終了となりますが、最後にあの「RACER 風戸裕」についての詳細な記事を書かせていただく予定でおります。
約48年ぶりに針を落としたアナログレコード、その再生音を改めて聴いた感想やいかに???